幼少時
親は怖かったが、暖かな日だまりで妹と「おかあさん猫」と遊んでいた穏やかな記憶。
両親は関西出身で完璧な大阪弁を使っていた。
一歩、ウチの外に出ると、中国地方方言である岡山弁しか話されていない言語環境。
なので、妹と私の方言は四国の方言のようになった。
大阪弁 あかん
岡山弁 いけん
妹と私 いかん
言語は数学のよう。
妹みたいにお人形さんを買ってもらうことは全くなかった。
親には、甘えることは絶対にできず、何かを買ってほしい、と言えなかったのと、しかし、そもそも、壊れたラジオや木ぎれや草の根っこや、砂鉄集め・・・、そういうのが好きだったので、それで十分だった、というのがある。
両親には、甘えこそしなかったが、私は両親のことは好きで、妹のことも大好きだったので、家の中ではよく喋った。 |

ウチは、近所と比較すると裕福な方だったのに、近所で普通に貧しい子(かおりちゃん)と遊んでも、いつもかおりちゃんが女王様役で私が家来役だった。
父に
「何で幸子はいつも女王様にならへんの?」
と尋ねられるたびに、口ごもり、子供心に恥ずかしい、ちょっと悔しい思いをしたのを覚えている。
近所で一緒に遊んでくれてたのは、かおりちゃん以外にいなかった。
ピアノは3才から習わされたが、先生に自宅に来ていただいていたので、ピアノ教室の発表会では、逆に、ものすごく強い孤独を味わった(皆、近所から習いに来ているのに転校生に接するように遠巻きに接せられた。無論、こちらも誰一人知らないのだが)。
今思えば、近所の人との関係が特殊な感じだった。
岡山なのに、両親の経営するアパートは「なにわ荘」。
駐車場と浴場も経営していたので、一応、(新興)地主だ。
でも、大阪人特有?だか、両親の気質だか、ケチだった(ただ教育費は、いくら使ってもよく、心からありがたかった)。
浴場に来てくれるお客さんとは関係があるが、隣のウチの(貧乏な)人とは話したこともないような(誰が住んでいるのかが全く不明)、孤立した近所関係。(6/8追記) |
幼稚園では、対人恐怖症のように話せなかった。
保育園・幼稚園での私の「話し方」は、「無言」で、「人間関係」は「皆無」だった。
というか、幼稚園の先生に話しかけられると、決まって涙を溜めた(・・・その病名で正しいのかどうか・・・)。
(成人後、妹も同様の症状だったことを知った。
姉妹とも、権威ある親のような存在に危害を加えられる恐怖に怯えていた、ということらしい。)
幼稚園にも「授業」のようなものがあって、お絵かきとかクリスマスツリーの飾り付け等。
自信がないから何も発想できず、人のやり方ばかり盗み見ようとするが、真似も上手くできないので、何もかもが恐怖。
動物園の絵を描くのに、ワニがガラスの檻の中にいるのを描いたが、「ガラス」がわかりにくかろうと思い、←矢印して「がらす」と書いた。
すると先生が
「さっちゃん、これ、からす?」
と尋ねられた。
黒くて確かに口が大きくてくちばしみたいだ。ワニは。
「それは、からす、じゃなくて、がらす、です」
が、どうしても言えず、いつも通り、目に涙を溜め、うつむいて、うなだれて・・・
『何でこんな一言が言えないんだろう』
と子供心に悲しくて情けなくて仕方なかった。
遠足やお祭りは最も嫌な恐怖の日だった。
そもそも、教室でお昼を食べる時は、一人でも目立たないのに、外で食べると、異様に独りぽっちであることが目立ってしまう。
必ず先生が一緒に食べてくださるが、それが、また、嫌で嫌で、お弁当も喉を通らなかった。
皆、三角のおにぎりなのに私だけ鼓形なのも恥ずかしかった。
本当に遠足は恐怖だった。
遊び方、というものが、全く理解できず、誰とも話せない。
遊び時間は、いつも、一人で、亀の水槽をのぞき込んで過ごした。
幼稚園には、大きな亀が10匹程1メートルX50センチくらい、高さは30センチ位の大型水槽に飼われていた。
その水槽はドドメ色のような緑色のコケに覆われ、亀臭かった。
来る日も来る日も、亀が重なりながら水槽に爪を立てて、上に行こう、上に行こうとする。
亀は苦しそうだったが、私には私の園内唯一の友達のようにも感じられた。
亀を見ているのは、何も喋らなくていいので、楽だった。
卒園式の日に初めて、積み木遊びに加わったが、何が楽しいのかわからないし、そもそも、何をするための行為なのか理解できない。
せっかく遊びに加わったのに一切、話せなかった。2006年6/7記 |
小学校1〜2年までは、幼少時の延長のようだった。
女の子とは、やっぱり、話せないようだった。
しかし、男の子とは、何となく話せるよう。
気が楽になった。
でも、教室での存在は、実に目立たなく、学芸会で「四季の草花」の劇でも、クラス女子中最低の<椿の実>の役しかもらえなかった。
他の女の子は、皆、赤い薔薇さんや黄色いひまわりさん、悪くしても、せめて、サザンカさん・椿さんだったのに、私は・・・「椿」じゃなくて「椿の実」?
そもそも、私は<椿の実>なるものを知らず、お面を作る時に・・・
『一体、何色?』
と思いまどい、おそるおそる、隣の子と同じく赤色のクレヨンを取ろうとしたら・・・・先生から
「あ、久保さんは、これ」
と!焦げ茶色!!のクレヨンを渡された時は、本当に目を疑った。
セリフも最低。
「ごろん、ごろん、ごろん。
私は、踏まれて痛い、椿の実」
小学2年の時。
これも忘れもしない。
国語の教科書で、発音の練習、みたいな学習項目があった。
その中の
「町に たきぎを 売りに 行く」
というのが、あって・・・・。
どうも、前々から、どうも「ち」が言えないんじゃないか、と危ぶんでいたけど・・・
これは、どうも、読めなさそう・・・。
ど、どうしよう、当たったら・・・・。
順番が回ってくる。
ジンセイって、そういうもの(T_T)
絶対に当たりたくない、その「町に」が、当たった・・・!!!!!
「まちに・・」
と私は読んだ、つもりだった。
「ち」は、念入りに、しっかり言った、つもりだった。
「え?久保さん、もう一度」
「まきに たきぎを うりに いく・・・」
「えっ?久保さん。
まち、でしょ?
まき、じゃないでしょ?
まちって言えないの?
もう一度」
「まきに・・・」
この授業後、クラス中の男子に私の席の回りにやって来られ、わいわい、バカにされたことは言うまでもない。
「おい、久保。
『ち』って言うてみい。
あ!こいつ、さちこ、じゃねえか。
こいつ、自分の名前もよう言わんのか!
おい、さちこ、いうて、言うてみい!!」
どうしてもどうしても言えなくて、ぽろぽろ泣きじゃくった。
子供心に、このことが一生のコンプレックスになるんだろうと思った。6/8記 |
小学校3年の時にTVCMに出演?した。
岡山国際スケートリンクのCMで
私がお父さん役とお母さん役に挟まれて滑っているシーン(白黒静止画面(^_^;)
リンクで滑っていたら、一応、スカウトされた。
今思えば、ある意味、すごいことだが、それよりも、もっと凄いことには、半年は放映されたろうに、誰からも何も一切言われなかった、こと。
廊下を歩いていたら、一度だけ「あっ!あの・・・」とか言われかけたが、それだけ。
何だろう・・・、本当に全く目立たないごくごく地味な普通の平均的な女の子で。
CMという名にふさわしい「華」は、どこにもなかった。
あるいは、クラスとか学年という団体の中で振る舞う自信が一切なかった。
個人なら、まだいいのだ。
ああ、そうだ、体育ができなかった。
皆と一緒にやることは引っ込み思案になってしまって。
できないと思って、できないつもりでやるから、個人技も、よくなくて。
特にドッジボールなど、絶対に前に出られない(身体も心も)ので、皆の後ろに隠れていつも隅っこにいた感じ。
そういうのがありながらも、4年生で、初めて、<仲良し4人組>の一人にいれてもらえて、それが、本当に嬉しかった。
正直言って、どうして仲に入れてもらえたのだか、よくわからなかったが、私のすごく好きな女の子と文通もすることになって、女の子と初めて上手くいった、人生初の成功感?を味わう。
4人組は女子グループだったが、男子とも女子とも普通に遊べて、非常に楽しい思いができてきだした。
全く普通の女子の一人として、普通に話していた。
「ち」以外は。6/9記 |
5〜6年では<仲良し4人組>という名前ではなかったけれども、非常に気の合う4人組のお友達グループの一人になれて、本当に楽しかった。
なので、よく喋った。
(この中の1人は、以前、ブログにも書いた「トルストイ」の「戦争と平和」のワン・シーンの再現で3分で私を泣かせたヒロちゃんです)
男子ともよく喋った。
卒業文集で、私の好きだった男の子が私のことを書いた(つまり、相思相愛)。
■■奈良公園■■
奈良公園の鹿に、餌がないのに手の中にあるフリをして、お辞儀させて
「ないよ〜」
と言ったら鹿がっくり。
鹿に悪いことをしたなあ、と反省した。
向こうに久保さんが鹿におそるおそる餌をやろうとしていたので、後ろからそっと近づいて
「わっ!」
と言ったら
「キャッ!」
と言った。
久保さんは鹿が怖かったんだろうなあと思って、今度は久保さんに反省した。
6年間、楽しい思い出ばかりだったけど、修学旅行の奈良公園の思い出が一番だ。
(この作文にはイラストが添えられていました。
鹿が2頭、仲むつまじく寄り添っているの(*^_^*)
これ見て、『ああ、私、このヒトと結婚するかも』と思いました(*^_^*) |
よく喋ったし、楽しかった。
小5から中3までが、個人的には子供時代中1番楽しかった。
孤独感を感じることが、ほとんどなかった。
ドジな役は、本当にいい役。
小6卒業文集の彼とは中1の1学期まで付き合った?が、2学期からは私が他の子を好きになり終焉。
中1の2学期から好きになった片思いの彼=タケシ君のことは高1までずっと好きだったが、片思いのまま終わった(好きとどうしても言えない、思春期特有の、あの・・・)
中学・高校で英語の読みが回って来るとき、心臓が口から飛び出るかと思う程の鼓動の早さを伴う、極度の緊張に見舞われた。
しかし、小学校での本読みでは、そんなこと全くなかった(得意だった)。
同じ「本読み」でも、個人でここまで差がある。
小学校時の国語は4だが、5に近かったかもしれない(作文はよくできた)。
中学時の英語は3だが、もしや2に近かったかも、と思われる出来の悪さだった。
あがりの差を考えるに、やはり、自信の差であろう。
高校受験は、3年間、1度きりしか、模試で合格得点にしか達しなかった県下の進学校に入学できた。
つまり、3年間で2度しか、その点数に達しなかった訳で、職員室に報告に入ったら、拍手が湧いた。
(英語は、2年10ヶ月位、何もわからないで過ごした。
教師が厳しかったので<10・5・2・暗・テ・予>だけはやっていたから、最後の最後の追い込みが効いた。
<新出単語10回書く。キーセンテンス5回書く。本文2回書く(全提出)。本文全部暗誦する。毎回テスト。次回の予習>
これを3年間やったために、何とか3のレベル。
(恐ろしいけど、英語の中3の評価は4だった・・・
これって、恐ろしいけど、いまだに、母が英語教師に真珠のネックレスをプレゼントしたからと思う・・・)
でも、中3の1月に中学英語辞書の最後20ページ=<英文法のまとめ>を読んで、初めて、全てが謎がほどかれるように理解された。
中3の2月の英語のテストは飛躍的に向上(90点、とれた!)。
3月の入試には、そうやって間に合った(^_^;)
私にはあり得ない憧れの高校に進学できた。 |